不幸にも、不幸によって気づかされる、僕らの無関心。

ここ2日間、東京で発砲事件が多発している。暴力団同士の抗争、と言ってしまったらはいそれまでなんだけれど、単純に怖い。発生場所が僕の働く地区だということもあるんだと思うけれど、いつソレがおこってもおかしくないのだという事実に、いささか冷や汗する。このまま抗争が拡大していったら、それこそバクダッドみたいなテロ地域にいるかのような気持ちになる。

普段僕達は中東で起こるテロのニュースに対して「ああまた死んだのか」とかって思ってしまう。きっと現地でニュースを発信している人たちは「○月×日、△でテロがありました○○名が死亡しました」という事実的事実を伝えたいからじゃなくて「なんでこんなにひとがしななきゃいけねえんだよ、ふざけんなよ、なにがふざけてんのかさえもよくわかんねえけど、とにかくもうやめてくれよ頼むよ」っていう悲痛な叫びを伝えたいんだと思う。でも僕らはテロで人が死ぬというニュースが、単純な記号としてしか認識できない、なぜならあまりにもその類のニュースが多すぎて馴らされてしまっているからだ。みんなそうだ、僕だってもちろんそうだ、僕だって。

だけど、だけどどうだ、テロじゃないにせよ暴力団の発砲事件ひとつあっただけで、僕は偶然死におびえてる。多分僕だけじゃない、おびえてるのは僕だけじゃない。発砲事件が明確なターゲットがあって、テロが無差別だという違いはあるにせよ、誰にだってそう誰にだって流れ弾が当たる可能性はある。だから怖いのだ。

人間っていうのは本当にずるがしこい生き物だ。いざ自分の身になってみないとその恐怖に目を向けたがらないんだから。そしてそれが僕であり、他ならない僕らだ。こうして僕らは遠くの地で流れてる血に対してあまりにも無関心すぎたということにようやく気づくのだ。ああアホだ。