夕暮れを待って、君に逢いにゆくよ、気球に乗って。

その魚はずっと話したかった。

彼は他の魚よりは大きくない。けれど、彼は特別悲しいとは思っていない。生まれたとき、他の兄弟と比べて身体が大きい方ではなかったので、きちんと成長できただけで十分嬉しかった。別に身体が大きくなくたっていい。ちゃんと泳げさえすればいいから。事実、彼は泳ぎの上手い魚だった。他の300の兄弟よりもずっと上手かった。いつも気持ちよく泳いでいた。

その日海はいつもより澄んでいた。太陽もずっと上の方でてらてらと輝いていた。全身を躍らせ、前へ前へと泳ぐと、水は彼を穏やかになぞった。彼はその時間その瞬間をとても幸福に思う。彼は彼に生まれてとても幸福だと思う。けれど同時に、そう感じると同時にいつもこう思う。もっといい場所はないのか。できればもっと広い場所に行ってみたい。そうすればもっと気持ちよく泳げるに違いない。

不思議な気持ちだった。別に何も不満はないのだ。けれど彼の全身は幸福なこの場所から遠ざかりたいと願っているのだ。彼はよく理解していた。ここから遠ざかったところでもっと幸せな場所があるかなんて分らないのだ。他の場所は不幸かもしれない。水は汚れ、海中は灰色の泡が浮かび、恐ろしい魚が目と牙を光らせているかもしれない。もしかしたら、いま自分のいる場所が、世界で一番幸福なところかもしれない。そんなことを思いながら、彼は彼の胸に白いまるを抱えながら泳いだ。ただ泳いだ。いつの間にかにあの幸福な気持ちは泡になって消えていた。

その魚はずっと他の魚と話がしたかった。けれど誰とも話さなかった。友達の魚とも、憧れのあの魚とも。僕にはそれが不思議で仕方なかった。何でその魚は話をしなかったんだろう? 僕はその魚のことを良く知っていた。彼が好んで泳ぐ岩礁や、漁網から逃れる特別な方法、泳ぐときのひれのくせなんかも。僕ぐらいその魚のことを知っているのは、ちょっと見つからないんじゃないかと思う。

でも、分った。今日ようやく分った。なぜ彼は話さなかったのか。気球に乗って、朝の東京を空から見て、ようやくわかった。その魚はずっと話していたんだ。僕がちゃんと耳を傾けていなかっただけなんだ。それにしても空から海のことがわかるなんて、ちょっと馬鹿げている。僕は馬鹿だ。