CHEER LEADING*KATATHI

11時西友。N.Y.行きの手続き。13-17チアリーディング世界選手権大会@代々木体育館

大澤がすごかった。多分彼女は上に何人も乗せているんだろうけれど、それ以上にいろんなモノを乗せているんだろうと思う。例えば信頼や自負心。

朝日の朝刊に書いてあった言葉。これを夜に読めてよかったと思う。もちろん村上春樹の言葉なんだけど。

形あるものと形ないものが目の前にあったときにどちらかを選ぶことになったら、ぼくは形のないものを選ぶようにする。これが僕のルールだ。

僕はどうなんだろう、とこれを読んだときに浮かび、またそれは投げやりな人生の中に泡と消える。また、数行前にこうともあった。

自らがもとめていれば、それはある種の記号となって自らの前に浮かび上がってくる。

困ったことにこれは僕にとって、僕の人生において、確かに存在したし、僕もそのことに関してある程度の理解をもっている。特に恋愛において。恋愛においてこのような直感が働くことは場合によっては困ったことになる。それはこの軟弱で「行き当たりばったり」*1な感情に対してはむしろ致命傷。いつも恋愛では迷ってばかり、振り向いてばかり。

そんな話は置いておいて、要するに僕は形の有無を選択肢として提示されたときに過去/現在/未来的にどちらを選んでいたのか/いるのか/いくのか、ということがむしろ問題だ。昔は結びつきによって僕はシナジーやシンパシーを生み出していた。格好つけて横文字垂れ流しだけど、要するに悲しみを排して、居場所を探してたってこと。住み心地がよかったし、向こうもそれを認めてくれていたから僕は「今でも」カタノさんが「好きだったんだ」ろう。*2

じゃあ、今は? 今のことは分からない。きっと推移している。俺は少しでも前に進みたいと思い、あるいはすくなからずそう思ったから死なない程度に沈む底なし沼から抜け出したんだと思う。だってそうじゃなきゃ泥は意外に冷たい。僕から若い熱を容易に奪っていく。その熱はどこに逃げていくんだろう? 多分泥が膨張するんだ。泥の容積を増やす。また泥は新しい熱を数個とが出来る。群れが群れを呼び、魂は底なし沼に落ちていく。自分でそれを選択しなければ肉体的には生かされる。でも精神的な野心的な死。社会的希望((そもそも社会なんて概念や公共なんてものが今あったものかと思うけど))の熱はすっかり冷える。尊厳を失い、歯車と化す人間型ロボット。そこに意味はあるのか?

じゃあ、熱の高さはどこで決まる? フリーターかニートかで決まるような単純なものかよ未来。なんだ案外カンタンなことなのか? そんなわけねーよ。セカイ系万歳の世の中だろ? 二人の幸せは社会の幸せだからな。無理無理。人の幸せって何って考え出すと、究極、愛に行き着く。人間は愛のために生まれてるって俺は思う。誰も愛からは逃げられない。俺は舞城の意見に大賛成だ。自己愛も愛だけど、もっと愛。もっともっと愛。「自分を愛す」より「誰かを愛せ」と思う。愛の共振。もっと強い震動で俺/地球を揺さぶってほしい。

愛に形はない。もちろん時には物質的な形をとる。金やブランド品、花や写真、手紙や映画作品なんかもそうかな。数限りある。きっと最初に時計を作った人なんて愛している人に早く逢いたいから時計を作ったんだと思う。早く逢いたいと思えるし、相手にも思ってほしいだろうから。じゃあ話を戻そう。俺は何をしたい? 俺は愛を振りまきたい。俺ができるところまででいい。愛。愛をできるところまで振りまいてやりたい。俺ができる愛の形はまだわからない。だから、目先の金や名誉やなんかはゴツゴツネチョネチョドロドロギトギトぐすぐすジトジトベットリだからいらねー。愛を振りまくために必要なら考えた方が良い。でも俺は愛を配りたい。会社に入って愛を配りたいんす自分。どうせ地球なんて俺なんてもう少しで終わっちゃうんだから、愛。せめて自分だけじゃなくて誰かを幸せにしてやりたい。そーいやー、なんで? なんで幸せになってほしいんだろう? なんでかな。みんなが挨拶して、挨拶しかえした朝の方が、テロで子供が死んで悲しんでる父親や母親の姿を見るよりも嬉しいからだろうな。もうみんな無駄に死ぬな! せっかく生まれてきたんだからさ!

*1:それも多くの場合は行き過ぎた袋小路の末路において

*2:この辺の文章はさりげなく書いてるけど現在形と過去形が混じっているところが推移の途中であることを潜在的に示しているのだと思う。やはり文章ってすごい