GENJITSU*NO*SOKO

 モトヤマは一人の女性について考えている。彼の中にいつまでも残る一人の女性について。

 今、彼のデスクの前には彼女の写真が置かれている。卒業式の時のものだ。彼女は一人で優しさでもなく怒りでもない中間的で形式的な表情をカメラに向けている。ブレザーにバーバリーの紺マフラーをし、手には色紙と小さな花束がある。右膝には絆創膏が張られている。多分坂道を一緒に歩いていて転んだときの傷だ。髪は少し茶色い。けれどそれは地毛であることをモトヤマは知っている。少し左に傾いて立つ癖も。

 3年間のあいだに多くのことをポケットからこぼしてきてしまったようだ、とモトヤマは頭を抱え込む。そして伸びた髪の毛をくしゃくしゃと握る。「経験から学ばないものは、」ヘンリは言った。「生きようとしないものである」モトヤマはそのことについて何も言わない。言う必要がないのだ。

 記憶は寄せる漣のごとく、物事を曖昧にぼかしていく。モトヤマの周りを通り過ぎていったモノの殆どがその漣にさらわれ、水泡と帰した。その多くのモノに対してモトヤマが後悔の念や回顧の念を抱いたことはほぼ100%なかったと言っていい。それは、先週食べたものがなんであったかが思い出せないのと同じ種類のことだ。

 モトヤマはしかし、そのか細い右手で胸を叩く。ちょうど心臓の辺りだ。一度叩き、またもう一度叩く。そしてモトヤマは自分の影の濃さを一度確認し(癖なのだ)そしてもう一度彼の過去のことについて考えを巡らす。

 時の流れに逆流するものがある、ということがモトヤマには分かる。数は少ない。たまたま何かの拍子でこちらに流れ込んでくることがある。あるいは望まないのに手にしなければならないこともある。意図したにせよしなかったにせよ、モトヤマはそれらを上手に救い上げ、歪な容器に一つ一つそっと置いていく。それらは年輪を重ねるが如く、その輪郭と奥行きと色合いを増す。モトヤマはそれをじっと眺める。深く沈みこんだ場所で長い時間をかけて眺め続ける。そしてそれがモトヤマ自身であることを一つも疑わない。

 モトヤマは更に深く自分自身の内奥に向かって意識を向ける。時折聞こえてくる隣人の生活音や風の冷たさ(モトヤマにとってそれらは全てなぜかセックスと結びつく)に気をとられながらも、深く意識を沈める。今、深海に潜る潜水艦にモトヤマはなる。そして探査光を暗部に照射する。長く放置されていた、放置していた場所である。そして光が届く範囲が少しだけ伸びていることに気がつく、以前一度だけその深海に下りたときよりも。

 彼女について、今なら分かることも多い。むしろそのほとんどが当時のモトヤマでは理解できなかったことだった。そしてその重要さに今になって気づく。彼女の素晴らしさに気づく。深海に照射されていた光は、深海の夜明けを告げる。

 深海の中で、久しぶりに彼女の顔を見る。思い出も昔ほどは思い出せない。書き留めていたノートもどこかに消えてしまった。おそらく今この瞬間も一つ一つ失われている。だから、モトヤマは一つ一つの出来事に関してもう二度と忘れないように頭に叩き込む。「ここはそう頻繁にこられるようなところじゃない」モトヤマは深海の圧力に耐え続ける窓ガラス越しに言う「外はあまりにも冷たい」。

 写真の中の彼女は相変わらず中立的な表情を浮かべている。このとき写真を撮ったのはモトヤマだ。彼女はモトヤマの中に何をみていたのだろうか。モトヤマは3年の時を留めたままの彼女の目をじっと見る。そして彼女の中にモトヤマを見出す。そうしなければモトヤマは今何一つ思い出せない。

 そしてやはりモトヤマは二度と彼女と会うことはない。