不意に見せるその表情、距離感、遠いからできること。

r-mutt2007-04-13

今年のぼくのテーマは距離感です。

誰にだって近寄らせない踏み入られたくない見せたくない場所がありますよね。どうしたって譲れないライン。誰にだってあるよねそういうところ。ぼくなんかは図々しく踏み込んでくる輩がいると、ものすごい不機嫌になります。で、最近分かったこと。そのスペースの外からなら、その人とコミュニケーションとれる。表現しにくいけど、人には「ここからならいいよ」っていう許可のスペースもあるっていうことです。

もちろんその人がおかれた状況によって、そのスペースはいくらでもおっきくなったりしぼんだりするんだけど、とにかく、そういう発見って殊のほか、カメラを向ける上ですんごく重要なんです。カメラを向けられる状況っていうのは、それまであった状況を一瞬にして異質なものにしてしまう。でもぼくはできるだけ、その空間をニュートラルな状況に戻してからテープを回したい。もちろん戻すのなんて不可能だとは知りながらも。

取材をする上で、ぼくがカメラを向けるそのひとに、ほんの少しでもぼくがいてもいいというスペース作りというのが本当に本当に必要です。そのためのコミュニケーション。そのためにコミュニケーション。時にはカメラを置いて話をしたりもする。必要であればぼくがなぜカメラを持つことになったのか、カメラを向ける理由も説明したりもする。逆に向こうが僕に気づいて軽く会釈や目配せして、でも「近くはやだ」っていう相手の発する空気を感じてあえて近寄らないですごく遠くから撮ったりもする。限りない望遠レンズで彼/彼女と接してみる。それでも嫌がっている様子なら物陰に隠れてみる。オカルトちっくな話だけど、相手のことを深く考えながら集中しているととそういう配慮って意外とできる。

そりゃね、近い方が迫力のある絵もとれる、できることが増える。でも、なんだか偽物っぽくなるんだよな、あんまり近いと。相手がせっかくいいことをしていても、近くで撮ると偽善ぽくみえてしまうことがあるんだ、不思議と。きっとそれって観ているひとが本能的に、「おれならこんな近くから撮られたら嫌だよ」って思うからだ。「こんな近く嫌なはずなのに、なんで拒否らないの?」って疑問が疑問を呼んで、そういうのが蓄積して疑念に変わる。「これ嘘なんじゃねえの」

人によっては相手を信じることよりも、疑うことから始める。まあ、それも仕方ないと思う。正直な話。テレビに映っている「誰か」は自分の知らない人だし、話したことも無い相手だから信用しろって言う方がおかしい。そういう弱い地盤の上にテレビは建ってる。そこにさらに疑念を抱かせてグラグラ、なんていうことがあれば、もうダメだ。

こんなこと言ってるぼくだって、近くにいく。被写体にできるだけ近づくっていうのは撮影の基本だからだ。撮らなきゃいけないカットも撮る。Vが成立しないからだ。「うわあ嘘っぽくなってるこの距離」って思って撮りたくないと思っても撮らないと終わらないし、それも仕事だからと腹キめてテープ回す。でも本当に近づいていいのは、その相手が許してくれたスペースまでなんだろうね、やっぱり。そこから先に踏み込むと、やはりどこかで嘘に見えてしまうんだ。

この話ってよくよく考えてみると、撮影だけじゃなくて、他人ととるコミュニケーション全般に言えることで、こと恋愛なんかに応用が利くんだと思う。相手を思ってどこまで自分はすればいいのか、してあげようと思うのか。でも往々にしてそのスペースやラインを見誤って、たいへんなことになってしまう。これは経験則。相手に対する「馴れ」なんかもその境界線を見誤らせるファクターのひとつだ。みんなこれまで生きてきて、いろいろ経験して、さんざんスペースやラインの存在を知っていたはずなのに、まるで無いかのように思いこんでしまう、勘違いしてしまう。馴れや遠慮がないっていうのは不思議なものだ。偉そうに言ってるぼくだって、何度も痛い目に遭ってる。

そういえば「遠慮」ってことば、バラしてみると「遠くで慮(おもんばか)る」ですね。相手が入ってきてほしくないスペースの外(遠く)で相手のことを考えるっていうことなんですね。遠慮がないのは嫌ですね。