あれ見て水星だ、冬の四ツ谷、見つからない落し物。

僕の映像をみて「もっと追えよ、執着心が無いな」と人は言う。当然のことながら「追いたいのに追えない」という技術的な問題は抜きにして、執着すべきこと(数少ない僕の関心を引くもの)があれば執着する。追いたくないから追わない。

村上春樹ねじまき鳥クロニクル』、再々読終了。時間が経過してから読み直すと本の印象が変わるっていうのは本当だ。本は読み返す方だ。読み返さないなら、いっそのこと捨ててしまった方が潔い。

そろそろ本格的な冬。歳を重ねるたびに、冬の思い出がふえてゆく。それらは何にも変えがたいくらい、とてもとても大切なのだけれど、ときどきふっと頭に浮かんで僕をどうしようもない気持ちにさせる。冬がやってくるたびにこれまで僕が失ってしまったものについて考える。失われたものたちは温かい記憶の中でいくらでも姿を変えて迫ってくる。「おい、お前はそんなつもりだったのか」「違う」と僕は首を振る。違うんだ、そんなつもりじゃなかったんだ。記憶は執拗に僕を問い詰め続ける。僕は沈黙する。僕はそれ以上何一つ答えることができないのだ。

来年からの海外赴任が待ち遠しい。早く一人になってしまいたい。しばらくの間、遠くに行きたい。この海の外で、一人で過ごして、見つめなおす時間が必要なのだ。そこで、暗い砂漠がこちらを浸食する音をベッドの上で聞きながら、僕が感じつづけるこの渇きについて考えていたい。

ああ、もしかしたら、今追うべきものを追ってないのかもしれない。座礁したタンカーのように、もう追うだけの力はずるずると海中に抜け出してしまっているのかもしれない。そうだとしたら、とても困ったことになる。その海は、ぼくくらいの力なら、いくらでも飲み込んでしまえるのだ。