さよならだけが人生、理由なんて、君が大切なだけ。

 大切な人が悲惨な死に方をしたとする。僕は絶対にそれを報じたい。怒りと憎しみを込めて報じてやる。もうメチャクチャになる。僕が悲しいから怒りの矛先がどこに向いていいのかわからないから叫び続けてやる。でも、大切な人がいなくなってしまうことの悲しさには絶対に勝てやしない。僕がいくらがんばったところで、大切な人はもういないのだし、僕がいくら喉を切るほど叫んでも、大切な人はもう返事をしてくれない。

 僕らは普段、生と言うものに対してあまりに無頓着だ。自分が生きているという実感さえない。欠落した生。生きてるの?死んでるの?生きながら死んでるの?そうこうしている内に、日常の手にからみとられて自分のなかの子供性を閉じていく。小学校の頃のアルバムを押入れの奥に入れてしまうように。もう雨が降っても喜ばない。もうカミナリにも怯えない。濡れたら乾かすだけ。轟音には耳を塞ぐだけ。

 雨の匂いがする。文字通りの雨だ。もういつから雨の匂いをかいでなかったっけ?雨に濡れるのを嫌がるようになってからどれくらい経ったっけ?

 僕には大切な人がたくさんいる。最近になってようやくわかってきた。本当に大切だ。その人たちがいなくなってしまうことを考えれば、僕はきっと何だってできる。大切なモノをなくしてしまうことは、自分のからだを切り落としていくことだと思う。僕はなんだってできる。誰も(よくある不幸な事件の結末として)失いたくない。誰かが死んでしまうのは想像の中だけで十分だ。