ASHITAKARA OMOIDE

8時起き、9時大井図書館、14時一時帰宅(避難民みたい)、

舞城王太郎を2冊、柴門ふみを1冊読む。舞城の方は、いまいちだった。だけれど、不思議なことに、彼のほかの作品のよさが際立ってきはじめる。そういうのってなんだか笑える。また、この組み合わせがよかった。なにかっていうと、要するにあれだ、俺は理解した。この世の全てを理解した。とまではいえないけれど、確実に分かったことがある。それは、人はなぜ何かを生み出すのか。そしてそれになぜ目を向けようとするのか。それはつまりだワトソン君。自分ひとりの力じゃ暗いところを照らせないからだ。もやもやとかごちょごちょとかぽわぽわを上手く見ることが出来ないからだ。俺たちはそういうところを知れば知るほど深くなっていける。年輪を本当の意味でふやすことが出来る。きっとそういうくらいところを照らすのって、時間が解決してくれる、というのも一理どころか八里ぐらいある。潜水艦は少しずつ海の奥に潜っていくし、沈んだ太陽はやがて昇り始める。そういうことと同じなんだ。でもね、そんなことをわかっていないかった。(いないかったってなんか文章変だけど、なんだかおもしろい)俺は若いからきっと気づいていなかった。人間ならば、精一杯生きようとする人間ならば、時間は限りなく短い。そしたら、他の人間が時間をつかって考えた様々な自分の中にある感情の彫刻に目を向けた方が早いに決まってる。そういう意味で間接的に暗いところにある彫刻に触れることで、僕らは他者の経験を自分自身による経験かのように獲得する。

けれど、僕はこの数年で感じている。経験はあくまで自分自身の直接的な手によってえられなければならないと。(あ、後悔している原因のところにもどらなきゃというのを舞城が言ってた!)けど、俺はそんなこと気にしないようにする。なぜならきっとそこで綴られている物語、作品の文脈というのに対して「感動」するには――文字通り、通過するのではなく、そこに立ち止まって目を向けて、心象風景や原風景を想起すること――それなりの経験や、暗闇に置かれて日の目を見なかった彫刻の存在が必要なんだ。だから俺はそんなこと気にしない。俺はまたひとつもやもやを取っ払って、ひとつすっきりする。どうしてこんなに人間の心っていうのは複雑にできているんだろうと、半ば感心しながらも、ひとつの作品を通してすっきりする。

すっきりするというのは、やはりつまらない作品では無理なわけで、それなりの経験値をもって書かれた作家でなければダメなわけ。今日読んだ二人は本当に人間的な細部について常日頃からかんがえているんだろうなって思う。すげーよ。二人とも。舞城にはファンレターでも送っちゃおうかなって考えたくらい。すげー。話少し飛ぶけど、要するに世界は愛でできているっていうのはあながち嘘じゃない。ジョンレノンはちっともカッコイイとか思ったことなかったけど、それでも素直に自分の世界観やら何かを表現して、そこに愛があればすげーいいことだと思う。舞城の強さってそこにあるし、柴門や村上春樹にはない要素ってやっぱりそういう率直さだと思う。村上春樹は多分自分の海中にいっぱい彫刻が沈んでるんだと思う。っていうか沈んでなくてあんなに書いてたらそれはコンピュータが自動で書いてるとしか思えない。でも彼はその彫刻について全然教えてくれない。あるよ、彫刻。でもその彫刻は僕のことだから、気にしなくていいんだ。それはこっち側の問題であって、話すにはいささか込み入っているんだ。み・た・い・な! 最初すげーかっこよく響いたけど、今は違う。そこから遠回りしてたって、何も得られないんだって俺は分かってる。あまりにも整理すべきことが多すぎて、その部屋を放置していると、ドアの隙間からどんよりとしたものが出てきて、いずれは他の部屋の空気を害し、俺を侵食するに決まってる。おれは舞城との年齢が近いって言うこともあるけど、やっぱり率直に生きてやる。愛だろ!世界は愛で出来てなきゃダメなんだ。率直な愛。むき出しな愛。それも自己愛的な愛もしっかりと含んだ愛!

で、その愛ってのはなんだ?みたいな話になると、まだ聞かれても困る状態だからもう少し考えてみる。要するに今日俺が分かったのは、みんな暗いところを探そうぜっていうポジティブシンキングと愛が確かにこの世界を満たしているっていう事実!まだ目には見えてこないけどな!


熊の場所 (講談社ノベルス)

熊の場所 (講談社ノベルス)

山ん中の獅見朋成雄

山ん中の獅見朋成雄